栄養かわらばん第2号
1997年8月発行
発行:日本臨床・公衆栄養研究会
発行者:井上 一也
会長あいさつ:会長 井上正子
香川栄養学園長<く香川綾先生をしのぶ>>
恩師綾先生安らかに 日本臨床・公衆栄養研究会 会長井上正子
当研究会名誉会長香川芳子先生のお母様香川栄養学園長香川綾先生が去る4月2日(水)午前9時25分、先生の母校である新宿の女子医科大学で逝去されました。
ここ2年ほどー日の中で短時間車椅子をお使いになるご様子でしたが公務の催し会には必ずお立ちになられて、情熱あふれる力強いお話しをして下さり、聴衆一同の感激は大きく続いておりました。
今回訃報の知らせをうかがいましたとき、綾先生にはまだまだお元気で栄養学を学ぶ者のー人として、先生の厳しくやさしいご指導をずっといただけるものと思い込んでおりましたので、「残念」の想いがひとしおです。
毎年5月に本研究会の総会で芳子先生にご講演いただいておりますが、今年は演題を「故香川綾先生の栄養士教育」として、香川芳子先生がお母様の想い出をお話し下さる追悼講演となりました。
出席者全員が感銘を受けたそのお話しを収録したこの栄養かわらばん第2号は故香川綾先生をしのぶ追悼特集となりました。
真の栄養教育を目指して歩み続け、理想の扉を次々に開かれ、信念をつらぬかれた綾先生のご生涯に心からご冥福をお祈り申し上げます。
講演会「母 "綾"を語る」
当会名誉会長 女子栄養大学学長 香川芳子
母は、1899年に生まれ今年で98歳になりました。その誕生会が学園の理事会であり、そこに出席した皆さんと乾杯したり、食事をしたり、歓談して楽しく過ごしました。その翌日に、34年度短大卒業生のクラス会にも出席しました。また、その翌印ま私の誕生日でしたので、母と2人だけで乾杯しました。次の日の朝、様子がおかしくなり行ってみると意識がなく脳内出血が大量にありました。手術は不可能ということでした。苦しまずに大往生であったと思います。私どもとしては百歳のお祝いをしたいと思っていましたが、それは欲が深いと周りに言われてしまいました。
19・20・21世紀と3世紀に渡ることはできませんでしたが、20世紀一杯を生き抜いたと言えるかと思います。
自立心旺盛な生育環境の中で
母は、和歌山県の熱心なクリスチャンの家庭に生まれました。教会には遠くて通えませんでしたので、 6歳の頃に半年位女性宣教師にあずかって貰ったことがあります。いろいろ覚えるようにとの事でしたが、6歳では家に帰りたいことが先立ったようです。精神的なバックにはクリスチャン精神がありました。
母親(私の祖母)は、大変優しい人で、その頃から石油缶を改造したものでクッキーを焼いてくれたそうです。
母親の実家は、紀州の殿様の大膳部を務めた武士の家系でした。 父親(私の祖父)は、警察署長だったのであちこち転勤があり、一つの町にずっとは居なかったようです。
優しい母親に育てられましたが、14歳の高等科の時に、僅か2、3日寝込んだだけで肺炎で亡くなってしまいました。母は誤診した医者が悪いのだから、絶対自分は医者になって、皆のために働くのだと決意したとのことです。
その当時師範学校では、卒業して働くという条件で、成績の良い者は無料で教えてもらえました。そこには姉が行っていたので、母もそこに入れと言われまし???膽?膵???????芻??苅芫???????芦???苜膤艶軆艶?芽苦?苅??? ???たが、自分は医者になりたいと考えていたので、入学試験には白紙の答案を提出したようです。しかし、「姉がよく出来るのだから出来る筈だ」と入学を認められて寮に入れられました。
師範学校へ行って良かったのは、当時は男女の教育に非常に差がありましたが、師範学校だけは、女の先生だからといって学力がないのは困るので、男女とも同じしベルの教育をしていたのでしっかりした教育を受けることができたことです。
女学校もありましたが、良妻賢母を育成することが主な目的で、師範学校は先生として立派に勤まる人を育てる必要があるため、女だからと甘くする訳にはいかないという教育を受けたのです。
卒業後は、決まりなので小学校の教師になりましたが、ある日修身を教えていたら教科書に『ポ一ル遊びをしていて、近所の窓ガラスを割った時には行ってチャンとあやまってくること』と書いてあった。しかし、母は「私にはそれはできない、自分なら逃げてしまう」と思ったようです。
それを教えることで悩み他の先生に相談したら、「そんなことで悩む必要はない。何でも教科書通り教えていればいい、自分の考えと教えることが違っていてもかまわないのではないか」と言われました。母はそれを聞いて「冗談じゃない。自分としてはこれが正しいと思うことが出来る仕事をしたい」
ということで教師をやめ、その後は東京に住んで いる信仰心の厚い母の妹の所にきて下宿しました。
女医の初仕事は,ご飯炊き"
医者になるため、東京女子医専に受験したら、トッ プで入学できたので紀州の殿様から奨学金を買い、 学費の心配はなくなりました。
卒業後は、同じ和歌山県出身の島薗順次郎先生に相談したところ、先生の所に来いということになり、帝大医学部島薗内科に入局しました。
最初に言われたことは、「あなたはご飯が炊けま すか」ということですが、医者に向かって言う以上 何かあると思って、メジャーを取り出してお米の
分量や水の分量を測って炊いたら、同じ条件で炊 けばいつも同じご飯が炊けることがわかりました。
お米のビタミンB1は炊くとどう変化するか等を 調べました。今ならB1の測定は簡単ですが、当時は非常に難しかったようです。栄養状態のチェックは、ネズミや鳩を飼って、食べさせてどう育つかを見るわけです。炊事や料理をするのにメジャーを使うことによって、化学の実験のように再現性のあることが分かりました。
島菌先生から言われ、皆と胚芽米を作りました。胚芽米を食べさせれば、脚気にならないので胚芽の残る米を作るのに医局の人たちと取り組みました。米を精米機にかける時に、米を縦にして回す事で、胚芽の部分を取らずに精米する方法を発見し、それを米屋さんに頼んで胚芽精米を作りました。
当時は学生も脚気になり、軍隊でも脚気が多くて亡国病と言われていました。そこで、病院の食事を胚芽米にするようにして、脚気の予防対策としました。一人の患者の背後には50人の病院に来ないで我慢している患者がいると言われていました。これをなんとかしなければということで、『胚芽米を食べれば脚気にならないから、それを主食にすればよい』という講演をして歩きました。
食品群分類の先駆け "魚1・豆1・野菜4
胚芽米がいいとなると、胚芽米だけを食べて他のものは食べない人も出て来て、栄養バランスを悪くする人も出て来ました。動物実験でもそれはだめだと分かっていたので、山の上ホテルの講演の時に、思いつきで「主食は豚芽米、おかずは魚1、豆1、野菜4」というスローガンを打ち出しました。
1とは100gを意味しており、これは後に現在の"4つの食品群"に発展してきたわけです。 病院の食事について言えば、病人は食欲がないのだからおいしくなければ食べないし、力も出な
い。そこでいろいろな料理学校へ通って勉強しま した。しかし、なかなかうまく出来ないのでご飯を炊く時に計量した経験を生かしてやりました。むずかしいのは、味付けでー寸のことで辛くなったり、薄くなったりする。そこで生理的食塩水の濃度
0.9%を参考にして1%の味を基本に2%、3%の濃度を加減しました。
分量で示すと前と同じにでき、また遠く離れて いる人にも伝えられ非常に便???膽?膵???????芻??苅芫???????芦???苜膤艶軆艶?芽苦?苅??? ???利ですので、%で味付けを表すことにしました。
島菌先生の考え方は「医者は病人を治している が、病人を作らないのが本当の医者である」という ことで、「定年になったら、そこへ行くから学校を作りなさい」と言われた訳です。
その頃、島菌先生に言われて、母は入局以来の指導者である香川昇三と結婚し、子供も年子で4人恵まれました。
栄養学校の発足と私設栄養士の活躍
昭和8年には、自宅を開放して、お料理を教える「家庭食養研究会」とかそんな風な名前でやったんですが、医局員の奥さんや娘さん、学校の先生、看護婦さんなどを生徒にしました。料理を教わるつもりで行ったら、栄養学や食品学、生理学、解剖学の講義があるので生徒は驚きました。講師は友達の先生たちが担当し、その方々は後には学長になられました。
講義の後で調理の勉強をしましたが、調理の先生方は、当時一流の店をやっている方々にお願いしました。授業で使った調味料を計っておき、先生が帰った後に再度試み同じ味になったかを確認したようです。「栄養と料理」はその講義の記録を中心にして、昭和10年に、講習生の手で創刊され、友人、知人への報告のつもりで贈呈号としました。
その後、昭和12年に「女子栄養学園」と改称しました。戦争が始まり食料が不足してきました。基地へ行ってどのようにすればー番健康であるかを兵隊に教えました。正式に栄養士の資格ははなかったようですが、卒業生などが頼まれて出向いて教えました。これは栄養士の始まりであると言ってもよいでしょう。
学園は、一年間の教育でしたが、一年では足りないという人には、高等科として2年間学ぶようにしました。また、昭和15年には「献立材料配給所」を設立して、国民食の指導を始めました。食べ物が手に入らないと食事が偏って病気になるので、卸業者となって材料を仕入れ、一人分いくらの料金で材料と料理の仕方を説明して配給しました。材料が手に入らなくなったので止めましたが、材料のある所では続けて運営しました。
焼け跡に短期大学を創設
戦争が終わって、焼け跡に学園を復興させるにも実家は昔の庄屋さんみたいなものでそれほど財産もなく、お金がないために大変でした。東京軍事裁判で弁護を担当した明大総長の鵜沢総明さんに(一面識もない人に)助けて下さいと頼み込んだのです。先生は忙しいので息子さんを紹介してくれ、相続財産を個人ではなく法人が引き継ぐようにして接収されないようにしてもらいました。第一生命社長矢野一郎氏のお骨折りで財界人に資本金を募り、理事の人選もしてもらい建築費の捻出ができました。そうしてやっと、短期大学が設立できました。
その当時は、栄養指導をする人は専門学校、各種学校で養成することになっていましたが、それを短期大学に取り込みました。それが養成施設の間で太きな問題となり、なぜ短期大学で栄養士を育てるのかとカンカンに怒っている人もいました。
当時は、女性にとって4年制大学は高額の花であり、高等学校へ行けるのが良い方でした。短期大学にしたのは、後の4年制大学にも結びつくからです。
それまでの経緯から、調理を重視してその時間を多くとったので、学園の卒業生は調理ができる点で評価が高かったようです。
戦後は、学制が変更になり、女学校がなくなり、中学、高校となりましたが、女学校の先生は、そのままでは高校の先生にはなれず、認定講習を受けて単位を取らなければなりません。家庭科の認定を取るための認定講習をうちの学園が引き受け、全国から先生たちが集まりました。
それが現在にも関係していて、その講習を受けた人々が各地の教育委員会の家庭科の主任とか役職についていて、学園の方式を皆に知らせてくれています。学校で家庭科の先生をしている人は、栄養士になるなら女子栄養短期大学がよいと勧めてくれ、大変ありがたいことです。また、長い間、夏休みには家庭科の先生の講習会をしていました。昭和30年代頃は、短期大学が少なかったので、幸いだったと思います。
待望の4年制大学を設立
短期大学は、当時の日本の情勢から生まれたものですが、本来の4年制大学から見れば中途半端な点があり、4年制大学を作らなければと考えていました。その当時は、4年制大学で栄養について教え???膽?膵???????芻??苅芫???????芦???苜膤艶軆艶?芽苦?苅??? ???るのは、家政学部でしたが、栄養学は幅が広いので、家政学部で教えるのはだめで、栄養学部を作らなければと考えていました。しかし文部省は、とんでもないと反対であり、新しい学部は認めない方針なので、栄養をやるなら家政学部でやるしかありませんでした。
昭和36年に、生徒数50人だけで4年制の家政学部を作りました。初のころは、4年制に入りたい人が少ないのに、チャンとした有能な人だけを入学させようということで、なかなか定員数に満たないのに落していました。短期大学の学生で優秀な生徒に4年制に来るよう呼びかけたりしました。従って、1回生は卒業生が50人いなかったと思います。短期大学の卒業生の場合は、3年生からの編入という形にしました。
日本で2番目に栄養学部が誕生
昭和40年の頃、当学園の理事であった東大医学部長をなされていた児玉桂三先生が定年になり、徳島大学の学長に就任され、栄養学部を作ると言われました。あわてたのは文部省で、女子栄養短期大学が申請した時には、私学で学長が女性なので「そんなのダメの」一言で片付けられたが、今度は国立大学の学長が栄養学部を作るというのではつぶせない訳です。それから文部省の役人が「どういう風にしたらよいか、どういうのが作りたいのか」と学園の方に聞きに来ました。それを説明したら「それそれ」と納得し、徳島大学に最初の栄養学部が作られ、その後女子栄養大学に栄養学部が生まれました。そんな訳で児玉先生の応援が本当に大きかったと思います。
栄養学部は家政学部と違って非常に規制が厳しく、薬学部並の先生とか、教科内容とかの決まりがあるなど文部省の要求が厳しくなっています。その時に、全国の大学の中で栄養学部が出来たのは4つだけであり、女子だけの学校はうちだけです。
学部を作るときに残念なことが起こりました。栄養学部の卒業生のみが管理栄養士になれ、文部省と厚生省の共管、栄養士は厚生省の管轄が政府の予定方針でしたが、土壇場になって議員をしていた某女子大の学長が引っ繰り返して、家政学部を卒業した人も管理栄養士の資格を取れるようにしたので、母は大変に怒りました。栄養学部は本来管理栄養士を作るためのものですが、それを政治的な圧力で引っ繰り返されてしまいました。
栄養学部を作るには、先生の人数や教科内容も難しくて医学部に近いので、学校としても割に合わない為に、現在も初めの4校以外にどこの大学にも栄養学部は出来ておりません。これが"栄養学部誕生"のお話しです。
岐路に立つ管理栄養士の国家試験制度
今、管理栄養士の国家試験が問題になっています。調理師の国家試験を今までのように都道府県単位でなく、新たに財団を作って全国一斉に行うことになっています。厚生省では管理栄養士も調理師と同一の課で所管しているので、調理師と同じように、その財団で試験を行えないかと検討しています。
管理栄養土の受験資格は栄養士資格を取った後2年間の実務経験が必要であり、厚生省はこのチェックに多大な負担がかかり、悲鳴を上げています。
しかし、栄養士会や栄養士養成施設協会は、財団が発行する免状は厚生大臣ではなく、財団の理事長の名前になるので、それではいやだとゴネています。希望通りにするには財団を作らねばならずそれにはすごくお金がかかります。栄養士会と栄養士養成施設協会で基本財産を出すとすればそれぞれいくらの分担になるのか、出すのか出さないのかと言っています。調理土免状の方は決まっているからと言って調理士会のお金を出してもらって管理栄養士免状だけを出すことは出来ないという所まで追い詰められています。従ってその点をどうするのかを、早急に決めなければならないのに、短大は絶対反対と言っています。それでは栄養士の将来は無いということになりかねない、ということです。こんな所が、私どものやってきた栄養士養成の考え方です。
また、現場の立場から言えば、今はどんな職種でも国家試験があるのに、卒業すれば栄養士の資格が取れてしまうことにも問題があります。
管理栄養士でなければいけないという職種以外は、管理栄養士でさらに2年間専門の勉強をしてマスター資格を取った人と、高校を出ただけの人を使用者側では同じ扱いができるのが現状です。